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電子楽器、音楽、コンピュータ、プログラミング、雑感。面倒くさいオヤジの独り言

役割が人の性格と行動を規定する

洗脳、認められたい欲求のネタを一発。
ESという映画で、看守と囚人の役割を与えられた”ただの一般人”が恐るべき変貌を遂げていく話があった。
これは、アメリカの研究室で実際に行われた心理実験に基づいており、現在はこの実験は禁止されているという。
人は役割によって性格と行動が既定される。
共産主義イデオロギーが既定するのは人の階層についての妄想、血液型と性格を論じる占いの類も強力な役割、性格、行動の規定である。会社の中の役職も、軍隊組織もすべて人間個人の能力や性格とは無関係の役割強制と相場が決まっている。
元兵士という人間が、ヒューマニズムに満ちた人格者である例は枚挙に暇が無いし、退職した鬼上司が意外に良い人だったりするのだ。
自分も「最近○○君(自分)は変わった」といわれることがあるので、自戒を込めて言うのだが。
「いやいや、俺は変わってねぇよ」「役割を演じているだけだ。いつだって元の自分に戻れるぜ」なんて思っていると大間違いだ。役割が作り出す性格や行動は、自分だけの物ではない。
周りの認知が、長い時間をかけて蓄積してしまったら、自分がどうのこうのといっても取り戻せるものではない。
役割がどのように性格と行動を規定してしまうのか・・というのは、実体験として子供の頃の躾・教育を思い出せば即座に理解されると思われる。

「お兄ちゃんとして下の子の面倒を見る」「男の子は人前で泣いてはいけない」は、何の根拠もない当てつけだし、子供の頃に大人に褒められた経験が、現在の自分に繋がっていることは意外にも多い。
運動が”ある時点で”良くできた子供は、小学、中学、高校でも運動方面で努力するだろうし、喧嘩が強いと褒められた子供は、番長格に成り上がり、”暴力でも人を支配できること”を学ぶだろう。勉強で褒められれば、さらに褒められようと100点に近い点数を親に褒めてもらおうとする、その結果高学歴を身につけ、学歴が人を既定すると思いたがる。
褒められて気持ちよくなって、”もっと認められたい”と欲する気持ちは、ある価値観に絡め取られている。
「頭のいい人、真面目な人、良い子・・・が組織に順応しやすく、洗脳にも掛かりやすい」とオウム事件の時には説明されたが、本当にそうだろうか?単なる高学歴批判がにじみ出ちゃっただけのコメントじゃなかろうか?
頭が良かろうが悪かろうが、体力があろうが無かろうが、人ってのは周りの環境や役割で自分を支えているんじゃなかろうか?ヤクザが規律正しく行動する時、軍隊が一糸乱れずに作戦を遂行するとき、本当に目的のためだと信じて行動しているだろうか?親分に、上官に認められたい、他を出し抜きたいという行動原理に従っているだけではなかろうか?
他を蔑視したり、優越感に浸ったり・・といった傾向は、”間違いなく”組織やグループの強化に役立っている。

認められたい欲求が組織の制御に使われると、「たくさん殺した兵士が偉い」「部下を叱咤し、戦果をあげる上官が偉い」「えげつない方法であっても、無理な商談を決めてきた営業マンが偉い」「コスト割れしても、徹夜続きで健康を害しても製品を実現した技術者が偉い」・・・みたいな価値観に自ら身を投じて、褒められる喜びを得ようとする。本来苦痛であることが、目的や達成感を与えられることで、喜びに変わってしまうという倒錯。ここには、他者に対する優越が絶対に隠されている。ただの洗脳された馬鹿のくせに(笑)
看守と囚人の例で言えば、看守は囚人をコントロールして従わせることに快感を覚え、囚人は無駄な抵抗を諦め、暴力を受けたり、辱めを受けないように刑期をやり過ごそうと観念する。絶対的な権力を持つ看守から、模範的な囚人として認められたいがために・・・。
話をイデオロギーや血液型に戻すと、
イデオロギーは、どのように世界を解釈したら良いのか?と不安定なアイデンティティに対して、シンプルで強力な回答を用意する。不安にさいなまれた人間は、何とか自分を立て直そうとイデオロギーを見に纏い、世界を理解したフリをする。血液型についても、人間関係の無限のバリエーションに疲れちゃった脳が、明確な人間の役割を説明され、安心しきっちゃった上で、自らもそれに従おうとする堕落である。
誰かに自分が何者かを既定して欲しい・・・
誰かに褒めて欲しい、認めて欲しい・・・
そんなあいまいな、ふらふらした自我が、洗脳やイデオロギーの介入を許してしまう。