y-matsui::weblog

電子楽器、音楽、コンピュータ、プログラミング、雑感。面倒くさいオヤジの独り言

懲りずに・・「みんなの意見」は案外正しい

・行き過ぎた権威(専門家)依存への”健全な”ゆり戻しとの指摘←ジャーナリスト
・”みんなの意見”=新しい権威を商売に繋げたいというIT企業の新サービス←Web2.0
・真の民主主義=完全な機会平等を広めたいとの政治的活動←ネット民主主義
・純粋に集合論、集団心理などの学問領域←学者
・マーケッターの欲しがる新しいキーワード←マーケティング
様々な視点で語られているこの問題。
自分の視点ならどうだろう?
・みんなで話しても埒の明かないグダグダの会議
・自分が欲しいアルバムをおいていないCDショップ、売れるものしかおいていない本屋
・魂のこもった名曲にちっともお目にかかれない音楽番組
・店内の商品がすぐに入れ替わるコンビニ
・視聴者の意見というわけの分からない正義
・TV報道で大きく揺れ動く投票結果
・同じく情緒的なTV報道で輿論が形成され戦争が始まっちゃう現実
・難しいものが大嫌いな人々=自分が分からないものが存在しない思考回路
・学者さんの優れた研究が認知されるまで時間が掛かる
全部、”みんなの意見”が裏側に透けて見えることばかりで、全然正しいことだと思えない。
やっぱり、賢者は丘の上から人々を見ているって思える。それを、正しいと信じて生きるのもいいんだけど、いや実際生活する上では正しい態度なのかもしれないが、自分たちの知らないところに真実が転がっているかもしれない・・と思うべきなのではないかと思うわけですよ。
実際知らないことのほうが多いわけだし。

凄くいやらしいのは、「みんなは結構凄い正解を知ってるんだぜ」っていうへりくだりを偽装したアジテーション。政治家が「皆さん、そうでしょう」っていうのも気持ち悪いし、経営者の「皆さんの幸せのために私は・・」ってのも気持ち悪い。

逆に「大衆なんてものは、無知で何も分かっちゃいない」ってのも気持ち悪いけど、実際、知っている人から発せられる言葉なら、その言葉にはぐうの音しか上げられないではないか。感情的には腹が立つけど。愚衆社会の成れの果てとか言ってみる。やや偉そう。でも、たぶんそう。
”統計の解釈として、多数が正しいということにしましょう”っていう仮説が偉そうに一人歩き。
実際に、そういった予想でモノが売れちゃうんだからしょうがないか。

思想とか信条的な文脈では「みんなの意見が案外正しい」とは絶対に言いたくないな。
みんなはどうであれ、自分が正しいと思わないことには、何一つ自分では決められなくなっちゃう。
「多数者が支持するコカコーラが売れている」んなら「あぁ、そうですか、私は渋い緑茶が好きです」って言い放てるんだけど、「英語は世界共通語です」って言われると「うるせーよ、この野郎。俺は日本語に愛着を持ってんだ」って言いたくなるし、グーグルで検索されない情報には価値がないなんていう傲慢さにも腹が立つ。政治の世界で「消費税率アップ、所得税アップ、福祉の切捨ては皆さんの意見を反映した我が自民党が・・」なんて厚顔無恥にもいわれたら、「俺はそれを認めた覚えはないよ」と言いたい。
あぁ、やっぱ賢者とか超人にあこがれちゃうなぁ。