伝統、継承、慣習、神話、ルールにまつわる一人脳内ディベート。
我ながら反骨な(天邪鬼な?)ロックな文章になった。
他人の影響力に潰されないよう、若者たち、初学者、学ぶもの、押しつぶされそうな者に向けたエールかもしれない。(偉そうに)
以下、言葉の意味から確認
・伝統:
伝統(でんとう)は、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術などの様々な分野において、古くからの仕来り・様式・傾向、血筋、などの有形無形の系統を受け伝えることをいう。
・継承:
「仕事や財産などを受け継ぐこと」を意味する言葉です
・慣習:
一定状況において個人が繰り返す特定の行動様式が習慣といわれるが、これに対して一社会に広く繰り返し行われる習慣的行動様式が慣習である。
・神話:
人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や、文化、英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源 や存在理由を語る説話でもある 。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている
・ルール:
規則(きそく、ルールとも言う)とは、人の従うべき準則であり、主に文章によって規定されたものをいう。
おおよそ、この記事では、言葉を上記の意味で使っています。
神話 > 伝統 > 慣習 > 継承 > ルール(習慣、規則)
概念の大きさ、時系列からするとこんな感じで並ぶのかな。
過去に素晴らしい偉人がいました、その行動様式や生き様を学び、伝えるフォロワーが現れ、やがてその流派のルール(不文律)となる。多くの人間がたくさんの時間を費やして継承していくことにより、より上位の概念は更に強固になっていく。
■守破離(しゅはり)
ここで何を思ったかというと、クラシックとは何か、伝統とは何か、なぜ価値があるとされているのか、なぜ従おうとするのか、なぜ違反者は罰せられる(ハブられる、非難される、破門される、無かったことにされる)のか。
例えば、道(どう)の世界でも、守破離と言われるものがあり、まずは言われるがまま体にしみこませよ、できるようになったら少し崩してもOK、更に自分なりのスタイルを生み出せ・・となっていて、これは楽器でも、まず鍛錬、オリジネータと同列になったら崩しても良い、やがて独自のスタイルを確立せよというのがお約束となっている。
クラシック音楽の世界は(推測だが)さらに徹底していて、学ぶべきコースがあって、ここから脱落したら先はなく、まずは読譜、鍛錬、ミス一つない完璧な演奏が出来て、初めて表現などと言える。〇〇の演奏する△△は素晴らしいと言われるのも”破”の段階、過去の神々(天才作曲家、演奏家)からしたら”離”なんてとんでもない。
〇〇先生に師事したとか、門下生という権威。
「だからなんだっていうんだい?」と門外漢が疑問をさしはさむなどもってのほか。
「俺、その演奏聴いてもなんも思わんのだけど」などと言おうものなら”無知””無教養”をさらけ出しているかの如く。
たくさんの時間を掛けて、たくさんの人が感銘を受け、感動し、継承してきた・・・その事実が尊い。と
そこ(その世界)に所属していることでマウントしていないで「お前さんが学んだ成果を見せてくれよ(煽り)」
■クラシック音楽に思うこと
・想像上の物語
バッハ、ベートーヴェン、モーツァルト・・・皆、幼少期から楽器や作曲をはじめ、天才、勤勉な秀才、優れた演奏家、長年それに従事し続けたプロ中のプロ・・ではある。
以下は想像なのだが、
断片的な”しょうもない曲”、”実験的な曲”、”楽器遊び”、”死ぬほど苦しんだ曲”、”職業上なんとか作業的に作った曲”、”聴衆(依頼者)におもねって、「こんなんでいいでしょ」な曲”、”繰り返し自分の脳内でリフレインする愛着のある曲”・・・様々あったのではないかと想像する。
それを誰かが聞いたり、演奏して、その素晴らしさが誰かの心を動かしたら、コピーや再演や、出版やイベントなんかの輪が広がったんだろう。
流行歌としてある期間、ある地方で爆発的に流行った、新しく発見された譜面や走り書きを元にどこかで再演された、権威として音楽ではなくブランドだけ流布した・・・色々あったに違いない。
・絶対に正しい伝統(?)
しかし、今日、伝統化され、尊い文化として君臨するクラシック音楽は(恐らく)違う扱いをしているように思う。文章化されたもの、誰かによって整理・体系化されたものを学び、糞もミソも一緒(糞は無いものとの不文律があるかのようだ)に素晴らしいモノだとの押し付け。
「この人のココ、なにかあったのかな?おかしいよね」というのは”単なるあなたの意見ですよね”ってな感じで。伝統は科学的な真理か何かか?
批判も許さず、文化庁から予算を貰い、「分かる人がいなくたって、大事な文化なんだから残すべき」とされている。
大体、うんちくを垂れて昔のチューニングはA=440Hzじゃなくて、とか”古楽器で当時の響きを再現するから正しい”とか。「うるせー」って感じ。
人の鼓動のテンポが同じで、長調、短調や色んなスケールが生じさせる生理的な反応が同じなら、身体が受ける心地良さ、不快、不安を元に、自分で判断すればいいじゃないか。現代人が、昔の人よりも、速いテンポを好みなら、当時のテンポがどうとかじゃなく、自分達の解釈で速いテンポで演奏すればよいし、速く弾くべきと解釈したならそうすればよい(楽譜的、学問的な解釈はそれはそれとして)。左脳的な知識や権威や流行りすたりは関係ないし、数百年の前からこの曲が存在し続けていて、同じ響きを自分も体験している奇跡を感じるだけで良くない?と思う。
そう、音楽の体験ってのは、個人的なものであって、”私が受け止めた私のもの”であるよね?と言いたいだけだ。
・演奏家の病気
演奏家のマインドだってまともじゃない(のがいる)
自分がたくさん練習して、楽譜の通り、先生の言う通りに演奏できるようになった私が、精魂込めて楽器を弾きました・・・尊いでしょう?
(教えられた弾く能力を競っているだけの競技なの?)
何かの番組だかネット記事だかで、どこかの音楽院(?)のピアノの鍵盤が、生徒の猛烈な訓練によって凹んでいるというのがあった。
「すごいな」「そこまで追求するって半端ないな」と思う。
どのような世界でも1万時間練習して一人前と言われる。ゲームでもスポーツでも音楽でも。何かを極めようと、求道者のごとく自らを律し、打ち込む。
素晴らしい・・と思う。
ギタリストが「実は毎日ほぼギターを手放さない。いつも弾いている」と言っていたりすると、その音楽性と結びつけて「だから彼のギター、音楽は素晴らしい」となりがち。
「それって本当かい?」と思う。
いつ何時、どのようなコンディションでも特定の音や音色を出せる、同じ感動的な演奏が出来る。「プロだな」と思う。
だけど、それを聴いた受け手が感動するかどうか、影響されるかどうかは音で、聞いた人がジャッジする話だから、鼻歌でも感動するし、子供が弾いたトイピアノでも素晴らしい。パンク・ロックで元気づけられて、自分も楽器をやってみたいと思う。良いじゃないか。DJやヴォイパを見てまずはスタイルから入る。結構結構。少女みたいな子がTVで歌う歌で共感して泣いた。すごいじゃん、力のある音楽だね。
どこの誰だか知らない世界の田舎で、おじちゃんが歌った歌がなんとも悲哀があって、泣けた。そういうことだよ。「俺にはこれしかできない」とインドのオヤジが叩いたタブラが超絶過ぎる。素晴らしい。
そう、ここでも私は「俺たちに音楽を取り戻そう」と言っている。権威とか序列とか、音楽の体験には不要と言っている。
「高みに上る意識こそが芸術だ」と得意げに自説を披露する人もいる。
何かの罰ゲームですか?道(どう)なんですかね。
こういう「私のクラシックはこうだ」と人に披露しつつ、人に強要する態度がそのジャンルの(その人)の腐臭だということに気が付いていないらしい。
「なんでクラシックの間口が広がらないんですかね」「私はクラシックを皆さんの手に届けようと思います」なんて、猪口才な。(上から)
だってね、片方で、鍛錬した一握りの努力家、天才しか芸術ではないと言っていて、片方で「なんで間口が広がらないんでしょうね」だもんな、「間口なんて広がらなくてよい、誰も分からなくても良い、私は芸術を目指す」と言えばいいのに。
「お前さんみたいなのがクラシックを初学者から遠ざけているんだよ!」
良い音楽を紹介する、流す、その素晴らしさを伝えるだけで良いのに、腐臭を漂わせてしまうから。「臭い」「まずい」「面倒くさい」とその世界の外の人は嫌悪するのに。
お気づきの通り、ここで私は「権威を振りかざし、価値観を強要することが人を遠ざけたり、腐臭を放つと言っている」
・電子楽器(コンピュータを使った近代の音楽)
はっきり言いますが、再現芸術を目指すなら、今はコンピュータもMIDIもあって、自分が思う通りに(身体性は損なわれるものの)作曲家が譜面で伝えようとした情報(情感ではない)を寸分違わず再現できる。電子楽器がこの世に出現してから起こったことってのはそういうことではないか。演奏家が鍛錬して譜面通りに演奏できることを目指すなら”機械で良いじゃん”っていうのが、コンピュータが音楽を奏でることの意味。電子楽器やテクノという音楽のジャンルは、演奏家ではない人達に、音楽を楽しむ自由を提供したんですね。電子楽器なら弾いたそのままをデータで保存でき、必要ならスコアとして出力できる、鼻歌をスコアリングするソフトウェアもある。読譜できないからとか、採譜できないからとか、楽器の鍛錬がないから・・といった音楽を嗜む障壁はどんどん下がって、紙(楽譜)による伝達や、習熟といったコピー方法ではなく、電子的に音楽を流通させられる時代になった。
優れた演奏家でもあるYMO(Yellow Magic Orchestra またはY.M.O)はコンピュータでやらせることと、自分たちが演奏することを常に意識(相克?)して、たまには自分がコンピュータとして振る舞い、逆にコンピュータに人間らしさ(自分達らしさ)を反映させようとしたり、機械と人間による再現性の高い、それでいて人間味のある音楽を創造した。誰もができることではない、コンピュータと同期するために、クリック音を聞き、自分のリズムに自覚的であれなければならない。自分の指先から出す音は、オシレータという単なる機械で、何をするとどうなるかを分かっていないと自分が目指す音を出せない、何を演奏させたいかを自分が指示しなければ、うんともすんとも言わない機械を使って、YellowでMagicなOrchestraを構築した。主に木や金属で作られた音を出す装置=楽器を使いこなす、思い通りの音を出すのも大変なら、半導体でロジックとして構築されたシンセサイザーを使って、デジタルコンピュータに数値として音の情報を指示して、理想の音楽を作り出すもの同じように大変だし、習熟を要求される。
※だから偉い、凄い、尊いという意味ではない。脳内の情動を音として身体の外に出すという行為は等価だと言っている。
・楽器を上手く演奏出来る人がマウントしたがる件
何故か、初学者や練習中のプレイヤーを評論したり、見下したり、マウントしたりする。「あんなに下手なのに、賞賛されるなんておかしい」「あんなの対して上手くもない(私の方がもっとうまい)」「〇〇は名演と言われているが、実は△△の方が素晴らしい」「ロックなんて」「ジャズなんて」「J-POPなんて」「見た目だけじゃん」「〇〇なんて」「お前なんて」
直接的なそういう言い方をしないにしても、上から目線や、優越やマウントが透けて見える。
「私を見よ」が本音なのかな。はいはい。
「知るか!」
何を譜面から、先生から学んだんだろう?
自説はあるものの、まずはこの人達に、「あなたにとっての音楽とは何か」を聞いてみたい。
あなたの自尊なのか、感動の共有なのか。
演奏に苦労した、鍛錬したって言うことの価値と、音楽の良しあしって直結しないよね・・ということを言いたかった。鍛錬した人間にしか生み出せない音というのがあり、それがその音楽に必須の要件っていうジャンルや立場もあるだろうが、「意味なくね?」というのが私の意見。DTMで深淵な音楽を生み出したり、人の心に残る音をデジタル→アナログ変換機を通じて、ヘッドフォンやスピーカから出す音でだって、何がしかの印象を残すことが出来る。恐らく、体が震えるような感動も。
・クラシックの作曲家が今に生きていたら(妄想)
恐らく・・と前置きしておきたいのだが、バッハもベートーヴェンも、新しい楽器やテクノロジーを積極的に実験し、楽器に触発された曲をたくさん生み出すと思う。
どこぞかの未知の民族音楽を聴いたなら、必ずその音型や響きを取り入れたと思う。
レコーディング機材や空間エフェクト、コンピュータ、ネットワーク・・・自分を刺激するすべてを、自分の手法として取り入れたんじゃないか?と思うのだ。
つまり、坂本龍一も冨田勲もヴェンゲリスもキースエマーソンも、大島ミチルもエンヤカールジェンキンスも皆、現代に生きるクラシック音楽家なんじゃないか。
これから100年200年生き続けるかどうかわからないものの(それは時間が結論を出す)、先人の音楽に学び(学んでいなくてもいっこうに構わないのだが)、何かを発見し、表現し、影響を与えた。
譜面に表せない表現は、シーケンスデータとして、音色として、自らにない表現ならゲストミュージシャンと共作して。
だから、譜面に残っていて、音楽教室や学校で教えられるクラシックだけがクラシック(伝統)音楽ではない。守から破、離に到達している現在の音楽(自分以外のテリトリーの音楽)も同時に聴いた方が良い。
今の環境や技術や楽器や流行に影響を受けない音楽家というのはあり得ないんじゃないか?と思う。(まぁ、私の”べき”はあなたの”べき”とは違うという前提で言いますが)
※回顧、再現芸術なら別ですね。
=================== 想定反論 ==================
伝統とは、数多くの反論、批評に耐え、磨き上げられてきた宝石だ。科学における法則と同じ。
慣習とは、芸術の前提であり、嗜みだ。様式、形式は必要だ。
継承は、品質を担保するために、より純度の高い訓練、鍛錬、コピーが必要だ。劣化を防ぐために、守があり、ランクやレベルがあり、権威がある。
ルールも大事だ、野放図に粗悪品やまがい物が流通したら大問題だ、本当に尊いモノ、質の高いモノは、それ以外とは明確な区別が必要で、従うべきルールも厳密にあるべきだ。じゃなきゃ、やったもん勝ち、言ったもん勝ち、声の大きいものが勝ってしまう。
神話も大事だ、人は現実の模範、理想の投影としての神話をいつの時代も求めてきた。神は遠くにあらねばならぬ、絶対不可侵で無ければならぬ、俗のモノと同列に語ってはならぬ。
自分が創作している文章なのだが、なるほど、そんな気もしてくる。w
そういう価値を認めている自分も片方でいるよ。
長文になったので、続編に分けました。