■本稿の結論
音楽をつまらなくしている原因として
”音や曲の背景を説明する言葉”や”音や音楽の分析”や”体系に整理”にあるのかもしれないとふと思った。
そして、結論として
「音楽に触れた喜び、無知ながらも楽しかった音楽の聴き方の取り戻し方」が、体系や理論や、言葉に拠らない”無垢”であることの確認。
■これまでの経緯
一ヵ月半前に書いた↓
伝統、継承、慣習、神話、ルールの腐臭(脳内ディベート)①クラシック音楽・伝統・再現 - y-matsui::weblog (hatenadiary.org)
伝統、継承、慣習、神話、ルールの腐臭(脳内ディベート)②現代の音楽 - y-matsui::weblog (hatenadiary.org)
伝統、継承、慣習、神話、ルールの腐臭(脳内ディベート)→結論:自らのブランディングへの活用が吉 - y-matsui::weblog (hatenadiary.org)
で触れていることって、全部、言葉や言語的解釈に係ることで、
「音そのものを楽しむ自由を取り戻そうぜ!」(個人的な動機として)
だった。
自分が言葉で(ブログやYoutubeの詳細欄で)書いていることは、音楽そのものを聴いてもらう行為に対して、阻害要因ではないか?と思った。
・・と言いつつも新たな文章を書いているという矛盾。
■ベートーヴェンとワーグナーのスタンスの違い(非言語と言語)
ベートーヴェンは、曲そのものを聴いてもらうために、説明や作曲の動機、ロマン(物語性?)は極力排除したととある本で読んだ。(それも言葉だからこそ分かることなのだが)
対して、ワーグナーは「国家の理想すら音楽で表現できる」としていたと、大学の頃の音楽の先生から聴いたことがある。
自分は、言うまでもなく、音楽が国家の理想や何かしらの言語的なメッセージを送れると思っていないし、音楽が伝えるのは感情、情緒だと思っている。
■分析すること
音楽を分析する、リズムの構造、和音の構造、良いメロディの抽出。
音楽を生業とするなら、職業のスキルとして必要なのだろう。分かる。
作るからにはヒットさせたい、名曲を生み出したい。よりよくしたい。
YMOが良くメディアで言っていた「分析的な音楽の聴き方」が電子楽器やコンピュータによって、より喚起されたということをここでは指摘したい。譜面が誕生してから、譜読みという、伝達や分析が可能になったことはもちろんあるし、バッハの時代でも数学的な音の美しさを意識していたという話もあるくらいだ。
・コード
音楽の時間軸を縦に割って、音の積み重ねに名前を付ける、次に和音の音型の推移をコード進行だとか言ってみたりして、名曲と言われるものは、このコード進行になっている・・と秘密(陰謀)を暴いたかのような表現がされることもある。
音に名前を付けた、和音に名前を付けた(コード)、メロディが使う音の並びに名前(スケール)を付けたから、言語化することができ、伝えることができ、再現できるようになった。
しかし、音楽の生成時に、「ここはこういうルールに従っているから、次はこう来るべきだ」という作り方をされたのだろうか?(そういう作り方も多分にあるかもしれないが)
また、これを聴く人に、それを求めて良いものなのか?
「ここはこの13thが微妙な心情を表現しているんですよー(キラリ)」とか
作る側がどのような思い入れや、理屈によってその音を出しているのか?ということと、これを聴いた人がどのように受け取ったかということは、切り離しても良いんじゃないか?
作家、作曲家の意図を100%正しく理解する、受け止めるという聴き方を強要されているような気がして、不快だ。
■体系付けること(主に学問的動機)
膨大な音楽を目の前にして、時間軸や構成している楽器や、使っているスケールや、ストーリーを組み立てる(再構築と言っても良い)は、時に気づきを与えてくれるし、分かったような気にさせてもらえる。
情報処理で、ラベル付けや分類や優先度、フレームワークというのは大事だ。
データベースの論理設計で、基本となる視点をマスタと表現して、情報をラベル付けした上で、行列に並べて二次元のテーブルにして、テーブル間を関連で表現すれば、物事を体系化でき、これが一番重要なのだが、(論理演算によって)コンピュータで処理できる。
学問というのがそうかもしれない、歴史上の事物(人の行動であったり、生み出した音楽であったり、書き残した文章であったり、思想であったり)を並べて、差異を発見して、区別して、そこに繋がりを見出す。陰謀論のようなものだ。
自分の思想の恣意的な操作である場合もあるし、客観と称してスタンダード化されている場合もある。
忘れてならないのは、そこには必ず”主観”という自分だけのフィルターが存在しているということ。
むしろ、その自分だけのフィルターこそが、自分なりの事物への対峙の仕方として、重要視されなければならないのだと思う。
客観や体系化されたものを、受け入れ、それを正しいとして、反復・強化する。
意味があるんだろうか?(あるんだろうな)
価値感や、基準、捉え方がたくさんあって、互いに反目したり、同調したり。
「果たしてそれに意味があるのだろうか?(再度)」
言葉や体系化によって音楽そのものは音列を変えないし、印象も変わらない(印象は変わるか)。
■音楽の解釈
音楽を他人が(プロが)どのように解釈し、どのように組み立てているのかを伺い知るのは、実はかなり楽しい。
”関ジャム”という番組はプロデューサや編曲家やアーティスト自身がどのようにそれを生み出したかを教えてくれるし、クラシック音楽の解説をする番組も大好きだ。
アーティストの制作秘話、楽器製作者の想いを知るのも好きだ。
■主観的な印象の重要性
しかし、まだ知識を伴っていない音楽の聴き方、主観的な音楽の愉しみ方が愛おしいと思う。
例えば、
「小学生の頃、ベートーヴェンのピアノソナタ”テンペスト”に触れた、その後もずっと好きで居続けている」・・・情熱
「40年前に聴いていた中期YMO(MASS、LOOM、HappyEnd)のイマジネーションがその後も焼き付いている」・・未知
「クラフトワークのRadioActivityのイマジネーションがその後も焼き付いている」・・想像力
「ブルーハーツ良いよね」・・衝動、熱 ≠ 音楽の知識、理論
「おおたか静流、元ちとせ、ブルガリアンボイスの声に震える」≠ こぶしの表現、死生観
「KingCrimsonが表現する暗黒世界、虚無、魔術」
「民族音楽の多彩さ」≠ 西欧音楽の体系外
「バッハやアディエマスに感じる崇高さ」
作る側のプロフェッショナルな意識(知識)と、聴く側の自由の差異の話だったのかもしれないし、譜面に記載されない音色やアンビエントの印象の話なのかもしれないし、未知の音に触れた時の不安、不快の印象の話なのかもしれないが、音楽の深遠なマジックがあるのだとすると、そういった言語化や知識化の外にあるものなのかもしれない。
感情、衝動、神秘、妄想、想像、脳の情報補完、全体性
■音楽の共通性
主観を大事にした音楽の愉しみ方ということを言いながら、実は音楽の共通性ということに心を奪われている。
メジャー、マイナーを誰もが聴き分けられるとか、世界中の民族音楽がペンタトニックという音の配列に集約されるとか。
音楽のテンポと心臓の鼓動との関連。
音楽が心に沁み入り、人を感動させることには、一定の共通性が認められ、誰もが持っている能力であること。
言葉や論理が鍛錬を必要とすることと反対に、音楽には誰もが素地がある。
このことにとてつもない可能性を感じる。
先の関ジャムの受け売りなのだが、メジャーセブンスのコードは、メジャーとマイナーのあいの子の構成音になっていることで、聞き手がメジャーともマイナーとも取れる微妙なニュアンスだとか、あえてルートの半音を、ぶつけると美しいとか。
(結局、言葉で論理を書いているわけだが。)
そういう、理屈や仕組みが頭で理解されていなくても、人々の脳が、耳がちゃんと聞き分けられるということに驚く。
人間の五感のうち、常に働いているのが聴覚(耳は自分の意志で閉じたり機能を停止できない)、人が死ぬときに一番最後まで働いているのが聴覚だとか聞くと、人間にとっていちばん大事なのが音だってこと。
音楽は人ひとりひとりに備わった基本的な能力、生命力で、頭で理解しようとしなくたって、充分に楽しんでいることになるし、なんの力量も、正しい方法も無いよ。ってこと。
言葉に惑わされるな!