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電子楽器、音楽、コンピュータ、プログラミング、雑感。面倒くさいオヤジの独り言

YoutubeのDislikeマーク

あぁ驚いた。

最近、精力的にYoutube動画を上げていて、「これいいぞ、聴いて!」と公開している動画にDislikeが付くことがある。

いいね!しか期待していないというか、”嫌い”ってわざわざ投票する輩がいることに。

4票のうち2票がDislikeで50%なんて表記されていると、「あぁ、半分が嫌いなんだ」と落胆する。

・・・が逆に、4人が何らかの行動をとってくれたとすれば、「あ、無関心ではないんだ」と持ち直す。

自分の場合、たかだか30名程度のチャンネル登録数で、ユニーククライアント数も100名/日程度のチャンネルで4人が行動してくれたと思えば、立派なもんだ。

(何十万ものDislikeでTOPになり、それをネタにしている芸人もいる・・これも凄い)

もっと面白いのは、Youtubeから関連動画やお奨めなんかで表示された中の4%-8%が実際にクリックして参照してくれるのだが、これも4%だ。

数字の符合があるっていうね。なんか、法則でもあるんだろうか。

 

■BadじゃなくDislike

Youtubeの配慮が効いているのは、Good⇔Badじゃなく、Like⇔Dislikeとしているところだ。良い・悪いだと客観的な評価に思えるが、好き・嫌いなら個人の感想だ。

好きな人もいれば嫌いな人もいる。絶対主義ではなく、相対主義

 

■Dislikeの実装

Youtubeの実装として、検索結果や閲覧数にLike,Dislikeは影響していないらしい。しかし、個人の検索パーソナライズには、Dislikeを押した動画(チャンネル?)は表示されないようにしてあるらしい。

つまり、Dislikeを押すことで、個人の検索結果をパーソナライズできるということなのだが、これがいいのか悪いのか。

 

■クリエイターにとって反論、批判が必要であるという寓話

反論、批判は通常、文字や論理を使ってやるもの。「これこれこういうところが良い、こういうところが残念だ」「こういう価値観を共有している」といった類だ。

残念ながらLike,Dislikeはそういう要件ではない。

投票機能があることによって、参照数そのものが好意的なものなのか、批判的なものなのかを数値として把握できる程度のモノ。SNSでDislikeやBadみたいなものがあるのはYoutubeが初めてということらしい。

他のSNSが”いいね!”によって承認欲求やポジティブな心理を醸成していることとは対照的だ。Youtuberの中には、「DislikeがYoutubeの良いところ。クリエイターはより良いコンテンツにするための糧に出来る」というような寓話がある。

 

「とんでもない!」と思う。

 

何が良かったのか、何が悪かったのかを知る術がない。どの時間軸上でDislikeなのかが分からなければ知りようがない。「せめてコメントを残してくれよ」と思う。

(ユーザ登録していないとコメントできないから、身バレリスクがあるのか。こちらは身分を明かしてやっているのに)

 

単に「俺、この動画嫌だ」と言われただけで、何が糧になるのか?

※その意味ではLikeも「何が好きなんだ?」という材料ではあるが、生じる心理が全然違うね。

 

Dislikeを貰って、喜ぶマゾはいない。恐らくネガティブな感情を想起するのが大半だ。

ミュージシャンは批評家や評論家が好き勝手に記事で批判していたり、ディスクレビューで低い評価をしたら、単純に気に食わないと思うだろう。

自分達が精魂を込めて、楽曲やアルバムを制作し、自信たっぷりにリリースの日を迎えたら「俺、これ嫌い」と言われるのだ。

「あざーす!糧にさせていただきます」とポジティブに取り入れる人がいるだろうか?

嫌われてるのに。

 

■統計的な意味合い

論理的には、好きも嫌いも半々であっても良い位。統計的には、標準偏差の両端が好き・嫌いだとしたらLikeとDislikeで2.5%づつ位が良いところかな。

実際には、好きを押してくれている1とか2ってのは知り合いだろうから、差っ引いて考えると、大体100回の視聴のうちで好き・嫌い合わせて7くらいといったところか。

 

■Dislike(嫌い・嫌)の意味

「俺、こいつ嫌いだわ」「俺、これ嫌だわ」「もうちょっとだね」

こういう時って、大体、対象に好意を寄せていて、構ってくれないから嫌といって気を引くとか、子供なんかは顕著に、自分に関心を引きたいから”いやいや”をする。

嫌い、嫌と表明したときに、対象が自分に関心を持ってくれる効果がある。

もしくは、自分が嫌う部分を対象が修正してくれて、より好きに近づけてくれると期待する。

自分が、何かの対象に対して”嫌だ””嫌いだ”と態度を表明するときって、直接的に対象に働きかけてて、直させたい場合だ。もしくは「知らんぞお前なんぞ」と決別を意識したとき。

それ以外は、わざわざ(心理的な高い壁を乗り越えて)「嫌いだ」「嫌だ」なんていって、関係や印象を悪化させたくない。むしろ、スルー、無関心を装う。

 

■極論

もっと面白い視点を得た。

例えば、「あなたは日本という国が好きですか」というネット投票で好き・嫌いのアンケートを取った場合、アンケートを取った主体が日本を好きか嫌いかは関係なく、

「ああ、アンケートに答えた人は、日本を好きなんだな、または嫌いなんだな」と、アンケート回答者の傾向として、結果を眺めるはずだ。

自分のスタンスや表現とは関係なく、視聴者の傾向として、好き、嫌いが存在しているだけ。

そうか、自分の動画が好き、嫌いではなく、そこで演奏している曲や演奏の形式、音色などが好き・嫌いと言っている人がいるだけで、何か自分が評価されているように捉えるのが間違っているのだ。

自分は自分の好きな曲を好きなように演奏し、ご満悦で公開するので、ここで終わり。

あとは、これを見た人が勝手に好きとか嫌いとか思ってる。

「好きも嫌いも知らんがな(自分自身とは何の関係もない)」と決め込めば、どうでも良い問題に思えてくる。

ここで測られているのは、私が上げた動画に対する客観評価ではなく、”あなたの感性(主観)”ですよと。w

物凄い責任転嫁だな。でも、たぶん正しい。

 

■Dislikeが気にならなくなる時

参照数全体や登録者数が増えて、好きが増えてくると”嫌い”の声が”少数者”であると相対化されることになる。

心理的にも「好き」と言ってくれる人に救われるというか。中和されるというか。

Dislikeを感情的な攻撃として用いることが社会的な問題になり、YoutubeはDislike表示をチャンネルオーナーにしか見せなくなった。

”嫌い”があまりにたくさんになると、メンタル的にもヤバそうだ。

存在意義とか、何をやってもダメとか思っちゃいそう。

ネットを使ったイジメに加担する輩のあまりにも多いこと。

好きや嫌いをネットで表明することが、一つの意思表示というか参加意識に繋がっている。

 

結局、嫌い嫌いも好きのうち、興味の裏返しだ・・・と考えるのが精神衛生上よろしい。嫌いっていうことは、好きだと思って見たけど、思ったほどじゃなかったとか「これじゃない」と言われているのだから、自分の意識と、見た人の意識が違ったというだけのこと。

 

■そして、感謝

”嫌い”を付ける前までは、検索なりでサムネイルを目にして、実際にクリックして、「どれどれ見てやろうか」と思ってくれたわけだ。ありがたい。

Youtubeが「あなたこれ好きだと思うよ」と検索結果にリストしてくれたサムネールを見てもスルーした人がほとんどである中で、選択的な行為をしてくれたことに感謝!

実際に動画を見るという時間の浪費をした挙句に、フィードバックまでくれた。

まぁ、Dislikeを押すこと自体、何の抵抗もないし、ただマウスの左クリック、もしくはスクリーンをタップするだけのことだ。もっと軽いものなんだろう。

 

うんうん、LikeもDislikeも贈り物に思えてきたよ。

 

ありがとう