y-matsui::weblog

電子楽器、音楽、コンピュータ、プログラミング、雑感。面倒くさいオヤジの独り言

愛国心/西部邁・田原総一郎・姜尚中

右、中、左を代表する(?)論客による愛国心についての議事録。
愛国心といえば、右翼だ軍国主義だという時期があった。
自分が学生だった頃も、入ってくる情報は左翼思想がメインであり(周りに共産党員とか左翼学生がいたのが、そう感じる原因かな)愛国なんていう言葉は、即、731部隊天皇、右翼、暴力団・・なんていう感じだった。
2000年を過ぎたあたりから、ようやく左翼思想の見直しや反省が始まり、最近では、”日本が右傾化している”とも言われている。
右も左も関係なく、国に生活基盤を委ね、日本語を話している以上、国(政府とは限らない)や郷土、この国の歴史に親しんでいる(愛している?)のは当たり前だと思うのだが・・。
こういった対談で口泡を飛ばさないと存在を確認できない”愛国心”というのは、かなり壊滅的な状況になっているんだなぁと再確認。

”あの戦争”とか”終戦”とか言葉を濁しつつ、祖先をさげすんだり、犬死呼ばわりするなんていうのは、鬼畜の所業だと思ってしまう。現在に生きる恩恵を存分に受けながら、自国の祖先に対して、現代から過去を断罪し、世界平和やら反戦平和という戯言が、”いかにおかしいか”なんていうことはどこの国民でも、どの年齢でも分かることのような気がしてしまう。厚顔無恥
「国のために死ねるか」という極論がある。
「死ねるわけねぇだろ?国って誰だよ」ってのが私心として当たり前だと思う。特攻隊がそうだったように、極限状態で、公心で自分の死を偽装(大義によって私心を隠す)しないと、死ねるわけないだろう!と。
自分が大きなストーリーの中のヒーローとして同化できないで、どうして着弾の痛みや薄れていく意識を紛らわせることができる?
例えば、どんな汚いことでも、環境がそれを善として掲げ、多数が自分に期待しているとすると、どんなことだって出来ちゃうのではないか。国が戦争を国民に強要した・・と左翼は糾弾するが、国民が望んだ政権によって、軍隊に参加した男たちによって、半ば自然の成り行きで、真珠湾を攻撃し、中国に兵を進めたんじゃないのか?
悲劇として認識することは出来ても、祖先は悪いことをしました・・と謝罪行脚をする必要もなかろう。
NHKの敗戦60年番組で、櫻井よしこが「戦後60年間、どこにも兵を出さず、戦争をしなかったことを、もっと世界に誇っても良い」という視点。これが愛国心だと思うぞ。
世界的に帝国主義の波が吹き荒れる中、アジアの開放を信じて行動しましたと、主権国家に対する侵略もあった、強制連行もあったかもしれない、南京で民間人を殺戮したこともあったでしょう・・しかし、ポツダム宣言受諾後、戦勝国による見せしめ裁判を甘んじて受け入れ、米軍のアジア戦略拠点として基地を提供し、60年間アジア各国、その他の国々に対して、多大なる金銭的な支援と、不戦を実行してきました・・・と。
なんと愚直で誠意に満ちあふれた国民なんでしょう。胸を張って言います「我々は日本人です。」
・・・と