人間の脳は区別と相似の認識が大きな仕事だと思う。
あれとこれが違う(いっしょに見えても違いを鋭く察知する)、あれとこれの違いを認識した上で、微小な差異を無いものとして近似してしまう。
生存の条件として、優劣の問題があったとする。肉体であったり、頭脳であったり、金であったり・・・様々な尺度が用意されている(自分が優位に立てる尺度を常に求めているということ)。
まず、区別(峻別)する。これはフィルタのような作用だ。
次に優劣をつける。自分が優位に立てる(都合の良い)アイディアを採用し、そして繰り返し自分自身にフィードバックすることでそのアイディアを強化する。これが差別だと思う。
優劣の判定には、論理的な必然性は”全く必要が無い”。(恐ろしいことに)
多くの脳が同じような尺度を採用し、付和雷同している以上、それは正しいことと見なされる。
差別はなくならない。しかも、不当な差別ほどなくならない。
いや、仮に(夢想家や人権派、左翼思想の持ち主がもとめているように)完全に差別が無い状態が一時的にもあったとしよう。しかし、多分私の脳はそれを許容できると思われない。
新しい差別のネタを探し出し、そして自分が優位になる領域を求め続けるだろう。
それが生存の優劣に結びついている限りにおいては。
強さを求め弱さを許容しない定規を採用している限り、区別の先の差別は多分なくならない。
(出来るだけ多くの賛同を得られる定規であることが最もパワフルだと思う。だから論理性の欠ける市民のための差別は”侮蔑”する。もっと合理性のある差別によって万人が認める上位を求めるからだ)
いじめ、価値相対主義、不条理なリストラ、職種差別・・・全部、”人権”だ”平等”だと言えば言うほど巧妙になり、陰湿になり、合理ではないものに変質していないか?
「生存競争が繰り広げられているのだ」と受容したとすると、かなりの混沌とした状況がクリアになりそうなものだ。