このコーナーは、ロックを経過した青年が、魂の揺さぶりを感じた”ある神秘体験”について語るものである。
もちろんオカルトを語るものではなく、純粋な音楽ネタであるから、心配無用であることを始めに断っておきたい。
■YellowMagicOrchestra〜偽中華、偽エスニックのDNA
小学生の頃、ライディーン、テクノポリスなどの分かりやすい(SF的な)サウンドはまだしも、インチキっぽい中華やバリ島のケチャ、ガムランのYMOは怖かった。ソリッドステートサバイバーの人民服とマネキンが原体験なのだろうが、得体の知れない旋律、何を表現しているのか分からないサウンド。それがエスニックだと知ったのはかなり後になるが、このときの非ポップスの体験はその後の音楽体験に大きな影を起こしていると思う。
世界にどんな人が暮らしているか分からない無知蒙昧な小学〜中学生のガキに理解しろというのが難しいことだ。
中国のやけに能天気なメロディは怖い(何故か)。ガムランの非西欧音階、ケチャのトランスがかった高揚感は怖い。YMOの初期のイメージは、幾重にも細工された作り物のエスニック。顔を明かさず、謎めいたイメージ戦略だったと後に分かるが、黄渦論を白人が恐れるようなイメージを当時の小学生のガキにも感じさせたのだ。(きっと)
このような、誤解からエスニックへの旅が始まったのだ(良いか悪いかは別として)
■細野晴臣〜OmniSightSeeing、エスニックサウンドセレクション
YMOが勤めを終えた後、細野さんがひっそりと最新の動向を発信していた。
矢継ぎ早に今で言うヒーリング系音源を発表したり(オムニサイトシーイングに結実したと思う)、エスニック音源を紹介する役割を買って出たりしていた。自身もオムニサイトシーイングというアラブの歌姫とバンドネオンプレイヤーをフューチャリングしたアルバムを発表。
このアルバムを引っさげて、NHKの特番に登場した時、何かが始まりかけていた。キーワードは文明の先祖帰り
アミナというアラブの歌姫の吐息交じりのボーカルにノックアウトされ、これまたアラビックなバンドネオンの非西欧な響きに魅入られ、サンポーニャの乾いた、哀愁のあるメロディに惹かれる。これらが、ローランドのリズムマシンTR808やフィルターがブピブピ開け閉めされるシーケンスの上に乗って、展開されるのである。
エスニックサウンドセレクションは、合計8枚(?)で構成される世界中のレアな音源を集めた企画モノCD集で、我が家でも1セット購入。名前も知らなかった島の強烈な歌声や、美しいブルガリアのコーラス、フォルクローレなどなど、実に多彩な内容だった。
特に、ここで出会った、誰が歌っているのかも知らないミクロネシアのおっさんの歌声に魅了され、完全に心を奪われた。
レコードにもならず、今も島で歌い続けられている歌がある。アレンジも和音も無くても、ものすごい表現力。
格付けをして、値段を付け、消費され、そして忘れ去られていく音楽。
今もどこかで歌われ、魂を運んでいく音楽・・・。音楽の力?
細野さんがYMOの誤解への罪滅ぼしをしてくれたのだと思いたい。本当の音楽。
ひょっとしたら、細野さんもYMO以降、自らの救いをエスニックに求めていたのかもしれない。(OTT:OverTheTopとかっていって、過剰な消費、過剰なビートを突き詰めていきたいなんていう自殺めいたこと言ってたし)
ビートを微分していったらこぶしに行き着いたんだっけか?
細野さんの動きと同調して、90年、フランス発エスニックミュージックが大挙して押し寄せてきた。
ライとかベリーダンスとか。マルタンメソニエとかいうプロデューサが仕掛けたらしいんだが(フランスの細野さんみたいな感じなのかなぁ)、前述のアミナのアルバムはもちろんのこと、EPIC SONYを始めとするメジャーレーベルからナジマ(インド女性ボーカル)、ヤルデナアラジ(イスラエル女性ボーカル)、ハリスアレクシーウ(ギリシャ)、ドルチェポンテス(ポルトガル)などが続々リリースされる。
これらはすべて西洋人の楽器やアレンジ、特にエレクトロニクスが使われており、あくまでもエスニックポップスという範疇だが、唄(言語?)という”最も民族色が色濃く出る部分”を取り出している点で、納得できる(分かりやすい)サウンドだと思う。
西欧ではない”こぶし”と”単語”が何よりも目新しく、聴きなれたポップスにアレンジされているんだから、好きにならないはずは無い。
太古の文明に思いを馳せる番組だったと記憶しているが、このサウンドトラックが秀逸で、後に式部というユニットだったと知る。
胡弓、エレクトリックバイオリンに篠崎正嗣、シンセサイザーに大島ミチル、ボイスにおおたか静流、パーカッションにYASKAZ、ベース、ブズーキに渡辺等
これはエスニックと呼ばれるものではなく、グランドミュージック(アースミュージックって言ってたかな?)番組の趣旨に近い、博物館的な構成になっていた。(何を聞かせたいかが明確にコントロールされていて、土着というよりもイメージの世界)
細野さんがひそかに暖めていた先祖がえり、フランスから広がった非西欧ポップス、NHK発の混成ユニットの結成。
これが一気に90年という境目に爆発したのだ。
これから広がるディープな民族音楽への入り口として、非常に重要な出来事だったと思う。
唄は分かる。アレンジはどうか?
世界中の音楽の共通点・差異を求めるような聴き方をしていく。子供の頃怖かったエスニックは、青年の頃には心地よい刺激に変わっていた。これが消費か魂の巡礼かは知らないが、世界中の音が聴ける環境自体に甘えてしまっても罰は当たるまい。
中国で胡弓(ジャンジェンホワ)、モンゴルでホーミー、馬頭琴、インドで打楽器の王様タブラに出会い、パキスタンでヌスラットファテアリハーンに、ブルガリアでブルガリアンボイス、ルーマニアでパンパイプ、ポルトガルのファド(ミージア、)アイルランドのケルト・・。
ジャンジェンホワは、坂本龍一のラストエンペラーで胡弓を弾いた人。ラストエンペラーの胡弓でその泣きの表現力に心を掻きむしられ、彼女のCDを買いあさる。
なんという偶然!胡弓を手に入れ、自らが演奏者になるチャンスを得てしまうのである。
タブラの超絶ビートは、ドラムなんて全然足元に及ばない→タブラを手に入れてしまう
ブルガリアの名も知らぬお母さん達の歌声は、いつまでも頭の中にこだまし
ヌスラットの強烈な声は心を揺さぶる
荒々しい演奏の中に、楽器で表現することのすべてが現れている気がする。
テクニックが存在するのだろうが、”何故表現しなければならないのか”・・・動機の部分が絶対にあって、それがドラマーであった自分に猛省を突きつける。日本人である私が、今現在何を表現しているのだろうか?
これは音楽を聴くのではない!
何かを伝達されているのだ!と感じてしまった。
「いやいや、所詮は裕福なJapaneseの博物趣味ですよ。」「俺には伝統を継承した何かなんて存在しないし、消費者に過ぎないわけですよ」そんな自嘲気味な状態の頃、非常に素直なサウンドを耳にする。
サンプリングで世界中の音源を切り刻み、自分が聞きたいように再構成する。新しい(手法は古いか)エレクトロニクスミュージックの登場。
ワールドミックスでアフリカのエッセンスを表現し、2ndのボエムでは中近東・・・
エスニックのおいしい部分と、エレポップ的なカラフルなサウンド。万華鏡だ。口の悪い評論家はディープフォレストを酷評してる。民族音楽をネタに、左翼思想を吹聴するようなアジテータだ。「帝国主義的悪趣味にうんたらかんたら・・・」
ディープフォレストは健康だ。彼ら自身が世界中の音源の元となったミュージシャンを尊敬し、その音楽を愛していることが分かる。
自分たちとのセッションが物理的に無理なら、そうだサンプリングを使っちゃおう。(実際のレコーディングでは、現地のミュージシャンを招いてセッションしているらしいが)
ディープフォレスト関連では、DaoDeziっていうケルト風味のテクノを聞かせるユニットがあったり、StoneAgeなんていうグループも、ケルトカラーが心地よい素晴らしい音楽だった。
もうひとつ、ジュルジュラ(アルジェリア)。唄の歌い方は伝統唄法であるものの、エスニックというよりも良質なポップスっていった感じで、とにかく曲が良い。
エニグマっていうグレゴリアンチャントをエレポップ風味で聞かせるグループ(?)がいて、この人たち、2nd、3rdと続くにつれ、どんどん東欧地方のエスニック色を濃くしていってたのも面白い。
その他、AfroCeltSoundSystem(ケルト系エレポップ)、WES(ディープフォレスト関係),KennyWen(坂本龍一関係、胡弓)、Hector
Zazu(坂本龍一関係ケルト)など・・・たくさんのエスニック調ポップスが目白押し。たまに、クラブ系ミュージシャンが、エスニックをよくよく聴いてもいないのに、クラブミックスなんていってCDを出していたりする(ブルガリアンコーラスを切り刻んで最悪なビートにのせた、イタリアの糞テクノミュージシャンがいたなぁ)が、こういった尊敬のかけらも見られないような便乗商法はいつだって頭に来るものだ。
もはや、ジャンルとしてのエスニックというよりも、ポップスの中のエスニックっていう解釈が優勢みたいになってきて、レコード屋さんでもエスニックのコーナーに残ってるのは沖縄か中国かインド、アフリカか?・・・みたいな土の匂いのするものしかなくなっちゃった。
もっともっと豊かな視点があるのだと思うが、いつまでも現地のミュージシャンを伝統の枠に当てはめようとするそういうカテゴライズ自体が、非常に失礼なことではないかと感じてしまうのである。
だから!ディープフォレストは正しいし(西欧の枠組みの中から、非西欧に接近しようとする態度)、伝統音楽の枠から飛び出して、西欧と接触しようと試みる非西欧のミュージシャンは正しいと思ってしまうのだ。
西欧人(日本人を含めて)が現地の作法で交流して、短期間で「あぁ、あなたたちの伝統を感じました」なんていうのが、失礼なんだよね。
あれ?俺、なんか偉そう?何熱くなってんだか
自分の喉で空気を震わせ、同時に人の心を動かしてしまう魔術師たちがいる。
おおたか静流、元ちとせ、朝崎郁恵、テレーザ(マドレデウス)、ミリアムストックリー(アディエマス)、ビョーク・・・である。
何故、言葉にもならない長音だけで涙が出たり、頭がカーーーっとなったりするんだろう。
何故、これ以上ないような開放感や安心を感じさせることができるのだろう。
声は不思議だ。
どの言語で歌われていても、何を歌っているか分からなくても、なんとなく分かった気になるのはどうしてなんだろう。
エスニック・民族音楽なんていう壁を作られながら、なんとなく世界をひとつにしてしまうような幻想を抱かせる声。
声は不思議だ。
最後の秘境・・・それが自分にとっては、声の不思議であるような気がしてならない。