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電子楽器、音楽、コンピュータ、プログラミング、雑感。面倒くさいオヤジの独り言

「責任」ってなに?/大庭健

せっかく休暇をとっても、こんなハードな本を読んでしまっては、脳が休まる暇がないってもんだ。
オープンソフトウェアで常套句となっている”自己責任”
国民が政府の禁止した危険地帯に潜入した場合の”自己責任”
メーカーの製造物責任
ソフトウェアメーカーの瑕疵担保責任
大人も子供も責任から逃れ、誰かを追及するのに一生懸命だ。
自分を特権において、人の責任ばかりを追及する困った人間も多数だ。
「俺が責任を負うぞ。君らは心配するな」なんて聞いたことがない。
(・・ってことは、やっぱり多くは責任を負いたくなくって、誰かが追ってくれることに安心するものだ)
責任ってなんだべ?

それで、この本を読んでみた。何回も読んでみた。わからない章を繰り返し。
まえがきと本文、あとがきとを比較して論理的な構成を検証してみた。
しかし唯一読み取れるのは
「責任(レスポンシビリティ)とは応答可能性だ」である。
「おいおい!英語のレスポンスに可能性のアビリティだから、そりゃそうだろう!そうじゃなくってさー!」なのである。それから「自分以外と将来を共有するための福音」とまで言う。
原理的なことに目が行き過ぎて(それでも根本的に取り違え感が強いが)、現実に”責任”という言葉や概念がどのように使われているかにはまったく考察がないのが寂しい。
佐高の名前がたくさん出てきて、終いには国の政策を批判してこの本は終わるのだが、国の政策に対して自分が何をしたか、誰かに依存した生活を保留しておいて、あら捜ししているように見えてしまう。(良くある左翼的あるいは学者あるいは学生的特権意識のたまものだね)
倫理学だの法学だのと振りかざす割には、まったく結論も仮定も分からないのだから困ったものだ。
いや、これ本の作者じゃなくって、自分の頭の悪さを呪ってるんだけど。
誰かの問いかけや追及に対して、答える準備(心意気)があるよ!ってのが責任があるってことか?
Wikipedia”責任”の項目なんか見ると、自分が(自由に)選択し、行った事柄の結果に対する負担だと書かれている。
自分が行わなかったことに対しては発生しないのか?国家の責任とは何か(戦争責任なんかだね)
法的にイリーガルかどうかじゃなくって、倫理的にはどうなんだ・・・と。
なにか”自由という概念”に対して発生した自制装置のような気がしてきたぞ。