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世論という悪魔 / 小林よしのり

活字版ゴー宣らしい
ゴー宣もわしズムも読まなくなってかなり経つ。
相変わらず熱い、熱すぎる。暑苦しい。感情的な文章がこれでもかこれでもか。特に西部氏を罵倒している部分などは、相当にしつこいし、粘着質。
自分が正しいとして、かつてのお友達をこのように高みから批判する姿には、疑問。
正しさを求めるから、お友達を切る。立派な態度だ。自説が正しければ。
ただし、小林よしのり氏自身も、過去に相当の規模で、若者を扇動し、過ちを犯したのではないか。
言論村で細々と保守の本音を吐露していた西部氏とは比較にならないほどの大きい声、大きな規模で、センセーショナルに。
人の変節を憂う前に、自らの変節にも思いをやり、また今後も立場を変えうることを自覚していなければならない。
人は正しさのみで動かない。同感、同情、好意。
小林氏が書いているのが、論文なのであれば、学会の批判に耐えうるだけの客観性、資料としての価値、歴史解釈の正しさを第三者にアピールすることにも意味がある。(それを輿論と言っているのだろうか)
しかし、氏がやっていることは、過去から現在に至るまで、政治運動だと思う。政治運動がいいすぎなら、ジャーナリズム。
政治運動やジャーナリズムであれば、人を動かすことに目的があるはず。
そこには、お仲間を大事にしながら、メジャーな場所への露出や、営業があるのが現実の姿なのではないか。
学術的な正しさ、法曹界の常識、歴史学、正しさの尺度はたくさんあってしかるべきではないか。
かつて田原総一郎西部邁川田龍平古賀誠とお友達だったのだが、その後内ゲバで関係を解消。
皆、政治やジャーナリズムの世界の人だ。懐柔もすれば、立場も変える。自らの装飾に使えそうなら近づくし、そうでなければ遠ざかる。小林氏もその登場人物の一人なのだと、自分は捉えている。
何か正しさを彼だけに求めたりしていない。いろんな立場の中で、相対的な小林氏。

自分自身が相対化されることを、絶対正義主義者小林よしのりは、それこそ絶対に許さないだろう。
しかし、残酷な世論(世論という悪魔)は、小林よしのりをたちまちに相対化するだろう。この自分みたいに。