実家解体・改築のため、40年の歴史と向き合っている。
何もことを大げさに構えなくても、平たく言えば、「片づけをしています」ということなのだが。
これが、結構な一大プロジェクトなのであって、家作りのためのハウスメーカーとの打ち合わせを土曜日、片づけを日曜日と充てていると、休む暇も無いわけである。
8月に入ってから毎週末と、お盆の連休は毎日、片付けに時間を割いている。
今までに出したゴミの量、紙、布などのリサイクル対象分で、乗用車5台分
環境センターというゴミ廃棄所まで出しに行ったゴミは、軽トラックで3回分、乗用車で3回分。キロ数で言えば、700Kg。
今回の片付けは、大量のゴミの処分という側面もあるが、むしろ、”40年の歴史と向き合っている”の表現とおり、仕分け作業の度、思わず色々と考えてしまい、感傷的になりがちなのが疲れる。
自分の荷物はもちろんのこと、今は亡き祖母、親父が溜め込んだ色々な物品を整理したり、すでに別々に暮らしている兄弟の物品を整理するわけだが、捨てると決めてしまえばゴミにしか見えないし、とっておくと判断すれば、メモリアルなモノとして認識される。大量のモノ達が「ボクは捨てられてしまうの?何故」といっているような幻聴が聴こえてきて、狂いそうになる。狂いそうはいい過ぎだけど。
環境センターという廃棄場所の光景。大きな穴が口を開いているところに、これらのゴミ(と判断されたモノ達)がガラガラと大きな音を立てて吸い込まれていくのだが、この光景を思い出してしまうと、どうしても感傷的になってしまう。
火葬場に、大切な人が収められた棺おけが吸い込まれていくような錯覚。平たく表現すれば、この世の終わり、地獄。
ゴミかそうでないか、そのときの判断によっている。
モノを捨てられる人は、人間関係も断ち切れるドライな人なんじゃないか?
逆に
モノを捨てられない人は、人間関係においても、繋がりを維持するためにエネルギーを費やしている人なんじゃないか?
そして、捨てられない人に対して、「これって使うの?使わないなら捨てなよ」なんていうのは、人間関係に置き換えれば「そんなヤツ忘れちゃいなよ。もう関係が疎遠なんだし」とか「めったに連絡取り合っていないんなら、あなたの人生に関係無いじゃん」とかそういうことを言っているのに等しいんじゃないか・・・等など。
色々と思わなくてもいいことまで思っちゃうわけですよ。
今回の片付けで、ひとつ、最も感傷的な瞬間は
雛人形の片づけで、オルゴールが鳴った瞬間。
はじめの10年くらいは、母と兄弟で毎年のように、ひな壇を飾りつけた。何段もの棚の上に、ゴージャスな人形と、オルゴールから流れる”ひな祭り”の思い出。母は保母だったので、ひな祭りの時期になるとピアノで同曲の練習をしていた。繰り返し繰り返し。それが我が家のひな祭りの風景だった。
ボロボロのダンボールの中には、(10回しか使われていない)新品同様で梱包された雛人形セット、中身を廃棄するために箱を傾けた時に、オルゴールが鳴った。
なんでこういう悲しい旋律なんだろうか、日本の音階(四七抜き音階)
「捨てられないじゃないか」
結局、オルゴールだけを取り出して、保存。
妹に「コレだけはとっとけ」と渡すことに決めた。